怪談 ~リセット~
一成は小学生の頃から、毎日欠かさず日記をつけていた。一日の終わりに文字を綴る行為は、一成にとって気持ちを整理し、翌日を迎えるための大切な儀式であった。几帳面な文字でその日に起きた出来事が全て記された日記は、一成の人生そのものと言っても過言ではなかった。
ある日の夜、いつものように机に向かい日記を開いた瞬間、一成は息を呑んだ。
――今日の日付のページに、すでに今日の分の日記が書かれている。
丁寧な筆跡。それは紛れもなく自分の字であった。内容も確かに今日あった出来事だ。しかし、書いた覚えがまるでない。背筋に冷たいものが走る。
(もしかして寝ぼけて書いたのだろうか……)
いくら考えても他に理由が思いつかず、一成は無理にそう思い込むと、日記を閉じた。
翌朝、昨夜のことを思い出し、何気なく日記を開いた一成は、さらに困惑することになった。まだ始まったばかりのはずの今日、その“今日あった出来事”が書かれるはずのページに、一日の出来事がすでに詳細に記されていたのだ。
その日、一成は日記のことが気になりモヤモヤとした気持ちのまま一日を過ごしたが、『電車の遅延、学食のランチのメニュー、抜き打ちの国語のテスト、クラスメイトとの会話』これらの日記に書かれていた全ての出来事が現実に起こった。
それからというもの、一成が毎朝日記を見る度に、そこにはその日一日に起こる出来事が書かれているようになった。最初こそ一成はこの不可思議な現象に恐れを抱いていたが、次第に慣れてきて、そして“一日分の未来が分かる日記”を当然のものとして受け入れるようになっていった。
ある日、一成はふと思い立ち、日記に抗ってみることにした。その日、一成はカラオケに行く予定になっていたが、日記に名前が書かれていた友人とは別の友人を誘い、そして日記に記されていた店とは異なるカラオケ店に行ってみた。
そして帰宅すると、日記を開いてみた。もしかしたら内容が変わっているのではないかと思ったが、日記に書かれていたのは、朝見たときと全く同じ内容であった。
翌日、昨日一緒にカラオケに行った友人に訊くと、自分は一成とカラオケになど行っていないと言う。次に日記に名前が書かれていた友人に訊くと、昨日一成と一緒に日記に記されていたカラオケ店に行ったと言う。
どうやら、日記に書かれた通りの友人と、指定されたカラオケ店に行ったという事実だけが残っており、“日記に逆らった一成の行動”は一切存在しなかったことになっているようだった。
つまり、一成がどれほど日記に逆らった行動をしても、翌朝には「日記に書かれた現実」に上書きされるということだ。世界そのものが、強制的に日記の内容へと修正される。
日記に書かれていることだけが、唯一の現実となるのだ。
一成のクラスには、一成に日々執拗に嫌がらせをしてくるクラスメイトの竜樹がいた。嫌がらせは以前から続いていたが、最近は段々とエスカレートしてきていた。
一成は竜樹への怒りを胸に秘め、復讐の機会を窺っていた。そしてある閃きに取り憑かれた。
――日記があれば、どれほど酷い復讐をしても、翌日には“無かったことになる”のではないか。
最初は、竜樹のスマホを鞄から隙を見て盗み出し、捨てた。竜樹は必死に教室中を探し、犯人を許さないと怒りに震えていた。一成はその様子を見てほくそ笑んだ。どうせ翌朝には、そんな出来事など最初から存在しなかったことになるのだから。実際、日記には竜樹のスマホが無くなったことなど一切書かれていなかった。
復讐した事実は、日記によってリセットされ消える。復讐に対する報復を恐れることもない。そして一成の復讐心だけが満たされる。
こんなにも簡単に復讐できるのならと、一成は今まで溜め込んでいた竜樹への怒りを晴らすべく、大胆な行動に出た。学校の階段の踊り場で、すれ違いざまに背後から力いっぱい竜樹の背中を押し、階段から突き落とした。竜樹は階段を勢いよく転げ落ち、最後には階下の床に鈍い音を立てて頭を打ちつけ倒れ込んだ。頭部の辺りから赤黒い血溜まりが広がる。学校中が大騒ぎとなった。竜樹は救急車により病院に運ばれていった。
――だが翌日になると、竜樹は何事もなかったかのように登校し、再び一成に嫌がらせをした。そして一成の復讐がまた竜樹を襲う。
その頃になると一成は日記を見ることをやめていた。日記に書かれた“平穏な現実”など、もはや興味がなかった。何をしても翌日には消える――竜樹への暴力と狂気による復讐の無限ループだけが、一成にとって重要な“消える現実”になっていった。
その日もまた、竜樹の嫌がらせが始まった。機嫌が悪いのか、いつも以上に嘲り、唾を吐き、机を蹴り、罵倒した。
我慢の限界だった。一成の中で何かが完全に切れた。
放課後、一成は竜樹の家に向かった。家に忍び込み、一人でいた竜樹に襲いかかった。持っていたナイフを取り出すと、竜樹の腹を何度も、何度も刺した。最初は抵抗していた竜樹だったが、やがて力なく床に倒れた。弱々しい悲鳴が消えてもなお、一成は竜樹の身体の至る所を刺し続け、最後にはロープで首を締め上げた。
完全に竜樹の瞳から光が消えた瞬間、一成は高らかに笑った。
「どうせまた明日には――生き返る。そうだ、何度でも、何度でも無残に殺してやる」
動かなくなった竜樹に向かってそう吐き捨てると、一成はそのまま家を出た。
もちろん、証拠隠滅などしなかった。一成にとっては、その必要がない世界なのだから。
翌朝。爽快な気分で目覚めた一成は、リビングに行き、鼻歌交じりにテレビをつけた。しかし、画面に映ったニュースを見た瞬間、血の気が引いた。
『昨夜、高校生の竜樹さんが自宅で刺殺されているのが見つかりました――』
心臓が跳ねるように激しく脈打つ。一成は慌てて部屋に戻り、最近開いていなかった日記を手に取った。
“今日”のページは、白紙のままだった。
震える手で前日のページを開く。
そこには、いつも通りの一成の字で、こう記されていた。
「もう我慢できなかった。ついに竜樹を殺してやった」
その瞬間、玄関のインターフォンが鳴った。
ピンポーン――。
静寂を裂くようにドアを叩く音と、男の大きな声が響いた。
「一成くん、○○警察の者です。家にいるのは分かっています。開けてください」
一成は、開いたままの日記を呆然と見つめていた。
何度見ても、未来を記すはずの“今日”のページは真っ白なままだった。

更新日:2025/11/5
バージョン:1.0