通りすがりの〇〇なホラーブログ

自作のオリジナル怪談がメインのブログです。短編のホラー小説のような作品も書いていきたいと思います。怪談は因果律の中へ。

【通りすがりの怪談】怪其之二十三 ~監獄~

怪談 ~監獄~

手を離すと、後ろで鉄が重く軋む音がして今まさに通り抜けてきたばかりの扉が閉る。
扉が閉まりきるときに金属がぶつかる甲高い嫌な音が鳴り響く。もう幾度となく聞いている音だが、その瞬間にはいまだに体がピクっと反応してしまう。
扉の方を振り返ると、扉の上部にある覗き窓からこちらを見る看守の顔が見える。
その看守の顔はまったくの無表情で、いつ見てもゾッとする。いつもなるべく見ないようにはしているが、毎日会わざるをえないため、どうしてもその表情のない顔を見てしまう。
不快な気持ちを抑えつつ、私は前に向き直った。
目の前には青白い明かりに照らされた通路が長く奥まで伸びている。通路の突き当たりまでは30mくらいはあるだろうか。
通路の全ての床と壁が白一色に整えられているが飾り気は一切ない。ひどく殺風景な印象だが、ここは死刑囚がいる監獄なのだからそれも当然かもしれない。
その通路の両側には等間隔に鉄格子が並んでいる。鉄格子の中は檻となっていて、片側に5つずつ並んでいる。檻は全てで10あるが、そのうちで使われているのは半分の5つだけで残りは空きとなっている。向かいあう檻の鉄格子部分は交互に配置されているため向かいの檻の中の様子はそれぞれの檻からは見えないようになっている。
通路の壁も床もシミが一つもないほどに、常に綺麗に清掃されているが、それにも関わらずここは空気が澱んでいるうえに臭いが酷く、まるで動物の檻の中にいるかのような悪臭がする。意識しなくとも鼻ではなく口で呼吸をしてしまう。
その臭気の原因は檻の中にあると私は思っている。檻の中には様々な獣が入れられているからだ。いや、今私は檻の中にいるものを獣と形容したがその表現は正確に言えば正しくない。檻の中にいるのは首から上が獣で首から下が人間という半人半獣だった。その首から上の獣の部分はそれぞれに種類が異なるので、私は様々な獣と表現したのだ。
しかしここにいるのは実際には見た目は普通の人間、ただ死刑のときを待つだけの囚人たちだった。その囚人たちのことが半人半獣に見えるのは私だけだ。そして酷い悪臭を感じているのも私だけだ。
どうしてそのように見えるのか、その原因は私の中にあるらしい。私が初めてここに来たときに檻の中に獣が居ると恐怖から怯えていると、そのように見えるのは私の病気の症状の一つらしいことを教えられた。そしてその病気の治療のためにあなたはここにいるのだと、ここの監獄の所長から告げられた。
ただ、そのように言われても私には獣にしか見えないため、どうしても普通の人間として受け入れることはできなかった。
実際、私の視覚も嗅覚もそしてときには聴覚さえも彼らを獣としか認識できないのだから、どうしようもない。
だから私は彼らを"人"ではなく"ヒトのようなもの"と思うようにした。それが欺瞞であることは承知の上で、私が彼らの存在を認識として許容できる唯一の妥協点がそれだったのだ。ここにいる以上はそうしていくしか仕方がない。
私には彼ら囚人に食事を配膳する仕事が与えられていた。食事と言っても一つの皿にすべてが乱雑に盛り付けられただけのもので、見栄えは最悪のものだった。私はそれを食べたことはないが、味も最悪なのは想像に難くない。私はそれを初めて見たときにこれは動物の餌だと思ったほどだ。
皿を鉄格子の下部についている小さな扉から中に入れる。そして檻の中の囚人の食事が終わるのをその場で待ち、食事が終わって空いた皿を回収するまでが私の仕事だった。
仕事がない時間は、私は与えられた自室で過ごしていた。そこは死刑囚の監獄がある同じ建物内にあり、窓が一つもない閉じられた空間だった。その部屋からは仕事以外には基本的に出ることは禁じられていた。
部屋の中にいさえすればなにをするも自由だったが、私のいる部屋の中にあるものといえば部屋の中に所狭しと積み置かれている大量の様々な専門書だけだった。私はその中から選んだものを読んで一日の大半を過ごしていた。毎日が同じことの繰り返しだった。
ただ、ここに来た当初は私はそんな生活も悪くはないと思っていた。


私はこの監獄に来るまでの記憶が非常に曖昧だった。いや、ほとんど覚えていないと言ってもいいくらいだ。それは私の病気が原因なのか、病気の症状の一つなのかは分からない。自分が誰で、どこで生まれて、どのように育ったのか、その記憶も断片的にしか残っていなかった。そして、微かな曖昧な記憶も自分の記憶だとはとても思えなかった。例えるならば、他人の記憶の断片を頭の中で再生しているような感じだ。その記憶からはまるで自分が体験した実感が湧いてこない。唯一に朧げながらも実感のある記憶は、私は何かに追われ必死に逃げているものだった。誰に追われ逃げているのかはどうしても思い出せない。ただ、その焦りの感覚だけは明確に残っている。そのため、もしかしたら私は檻の中の彼らと同じように罪人だったのかもしれないと漠然とだが思うことがある。
実際にここから外に出れないという点で私は彼らと同じだ。ただ彼らが檻の中にいて、わたしが檻の外にいるのは、もしかしたら私が病気のためかもしれない。
所長からは私がここにいるのはその病気の治療のためと言われているが、それがどのような病気なのか教えてもらったことはない。治療と言っても私がやる事といえば、囚人へ食事を配るだけの仕事と、毎日の医者との面談だけだった。自分では病気が良くなってきているのかさえ分からない。
そもそもなぜ病気の治療をこのような場所で行うのかも分からなかった。
分からないことばかりだったが、そんな私に何ができるのだろうと考えると、結局はできることは何も無かった。囚われの身で言われるがまま従うしかなかいのは、やはり囚人と同じようなものだった。


私の記憶が明確なのはこの監獄に来てからだった。どのような経緯でここに来ることになったのかもまるで覚えていなかったので、おかしな話だけども私の記憶では私は突然ここに現れたことになっている。
そしてここに来て初めて会った人が所長と私の主治医と名乗る医者の二人だった。医者はイルカの顔をしていて私のことを心底驚かしてくれたが、所長は人間の姿をしていた。後で分かることだか、所長はここで私が普通の人間の姿に見える唯一の存在であった。
所長は何が何だか分からず混乱している私に対して、あなたは病気のせいであなた自身に現在、いろいろな問題が起こっていると、告げてきた。
医者がイルカに見えるのも、その問題の一つらしい。そして病気の治療のためには、私は死刑囚が収監されているこの監獄にいる必要があるとも言う。
イルカの医者は私を見て軽くお辞儀をすると口を広げて目を細めた。どうも笑ったようだ。どう見ても私にはイルカにしか見えないが、顔の表情や仕草はたしかに人間のように思える。
今後は毎日、決まった時間に医者と面談するようにと所長に言われた。
「まずはあなたのことを聞かせて。」
イルカの医者は優しい声でそう言った。
「あまり覚えていません。」
私は申し訳なさそうにそう答えた。
「いいの、覚えていること、今どういう状態なのか、あなた自身のことをあなたの口から聞きたいの。」
そうして私とイルカの医者の面談がその日から始まった。
そしてもう一つ、所長から私にこの監獄に収容されている囚人への食事の配膳が、私の仕事としてその時に与えられたのだった。


それからは毎日が同じことの繰り返しだった。時間になるとマネキンのようにまったく表情がない看守たちに連れられて、食事が乗せられている配膳用の台車が置いてある場所まで行く。そしてそれを囚人のいる檻まで運び食事の入った皿を配る。そして食べ終わったあとにその皿を回収して元あった場所まで再び運んで戻す。私はそれを朝、昼、晩と一日三回行っていた。それだけならばまだ私にとってはそれほどの苦痛とはならなかっただろうが、もう一つだけ課せられたことが私に心底に苦痛を与えた。それは囚人たちとの会話だった。
その行為をなぜ行うのかは具体的な説明はなかった。所長が配膳が終わってそれを回収するまでの間、だいたい30分くらいの時間、私に囚人と会話をするようにと指示があった。それもなるべく毎回ごとに違う囚人と話をするようにと。話の内容はなんでもいい。話すことがないなら囚人の話を聞くだけでもかまわない。私に必ずそうするようにと所長から厳しい口調で言われた。
私は何のためにそのようなことをするのか理解できなかった。囚人と話すことに何の意味があるのか。孤独な死刑囚へのせめてもの情けなのだろうか。
私が所長に思ったことをそのまま伝えると、所長は笑った。死刑囚に情けなど必要ないと。
いま一番に必要なのあなたの病気の治療だけ。囚人と話をするのもあなたの治療の一環だからするのであって、それ以外には理由などはないと私に答えた。
そのように言われたら私は従わざるを得ない。何故なら私は病気の治療のためにここにいるのだろうから。そして、今の私にはここでの生活がすべてだった。


10ある檻にはそれぞれ番号が付けられていた。
その日私は、通路の奥の右側、5番が付けられている檻の前で彼ら囚人が食事を終えるのを待っていた。
檻の中から激しい怒声が私に浴びせられる。
「お前はいつも何をそんなに恐れている。俺が囚人だからか。俺が怖いのか。俺は人に危害は加えたりはしないぞ。」
その威圧的な声は私を委縮させる。
「私はあなたが何をしたかは知りません。ただ、ここは凶悪な罪人が死刑を待つ場所だということを私は知っています。そこに居る以上、あなたは人に危害を加える可能性がないとは思えません。」
私は極力、恐れの感情を出さず冷静に話すようにした。
「違う、たしかに俺はカッとなりやすいし、すぐに暴力を振るう。それは認める。そのせいで多くの人に迷惑をかけてきた。それについて今は申し訳なかったとも思う。ただ俺は死刑になるようなことは何もしていない。なのになんで俺が殺されなければならないのか。」
そう言った男の顔は猿そのものだ。血走った目が恐ろしげだ。
「私にはあなたの顔が猿に見える。」
「はっ、猿だって、俺が猿に見えるというのか。それは酷い。お前は完全にイカれちまっている。」
そう言って歯を剥き出しにして威嚇しながら、私を睨みつける猿の目に浮かぶ感情は苛立ちだった。


その日私は、通路の真ん中の左側、8番が付けられている檻の前で彼ら囚人が食事を終えるのを待っていた。
ガリガリに痩せたウサギの顔をした女がこちらを見ている。
私は淡々と鉄格子に取り付けられた鉄製の小さな扉を開き、そこから昼食の載った皿を中に滑り込ませる。
扉を閉じるのとほぼ同時に、ウサギは昼食の入った皿に齧り付く。
その様はどこからどう見てもウサギ以外の何者でもなかった。
「こっちを見るな、気持ち悪い。」
ウサギは私にそのように言うと、それ以上は一切何も話そうとはしなかった。
食事が済むと、ウサギは檻の中で激しく踊り始めた。ウサギはダンスが好きなようだが、狭い檻の中ではただウサギがピョンピョンと跳ねているようにしか思えない。私はそれをただひたすらずっと見続けていた。
私の視線に気づいているはずのウサギだったが、もはや私がここにはいないかのように私を無視して踊り続けていた。その情景はシュールを通り越してもはや滑稽に見えることだろう。
ひたすら踊り続けるウサギの赤い目からは何の感情も読み取れない、ただ無感だった。


その日私は、通路の奥の右側の檻、4番が付けられている檻の前で彼ら囚人が食事を終えるのを待っていた。
ラクダのような顔をした女は口を常にモゴモゴと動かしていた。その口の端からヨダレが垂れているが気にする素振りも見せない。自分は人間だといって譲らないラクダだが、私から見ればやはりラクダだ。
ラクダは外に出たいとずっと言い続けていた。他の誰よりもずっとここに縛り付けられ閉じ込められているのは不条理だと喚く。そして「外に出たくはないのか。」と私に聞く。
私はラクダに「外に出て何があるのか私には分からない、だから外に出たいと思わない。」と答える。ラクダはこの上なく顔を醜く歪ませて笑った。
「お前は出て行こうと思えば出れたはずなのに実に愚かだ。」
「じゃあ、外に出たら何がある。」私は逆にラクダに質問をした。
「望むなら何でもある。 外に行けばどんなことでもできる可能性があるのに。お前は本当に勿体無い。それがわかっていないのが本当に愚かだ。」
ラクダがいうことは抽象的すぎて理解できない。意味不明な理由で侮蔑の言葉を浴び続けた私は実に不愉快だった。
私は話すのをやめたが、ラクダはずっと「お前は愚かだ」と繰り返し呟きながら、口をもごもごしていた。
私を見つめるラクダの澱む目に浮かぶ感情は妬嫉だった。


その日私は、通路の真ん中の左側、7番が付けられている檻の前で彼ら囚人が食事を終えるのを待っていた。
フクロウのような顔をした男は、私にここで食事の番をしている以外の時間は何をしているのかを聞いてくる。
私の部屋にあるものと言えば所狭しと積まれている大量の専門書だけで、それを読む以外にやることなどなかった。
今は欧州の中世あたりの時代の歴史書を読んでいる。特段に面白いとも言えるような本ではないが、他の小難しい専門書に比べればまだ理解ができて読みやすかった。
フクロウにそう答えた。
「この檻の中は本の一冊もない。それは実に羨ましいことだ。」
フクロウはそう言って嘴を歪めた。どうやら笑ったみたいだった。何が可笑しいのか知らないが実に不快な顔だった。
「本当に必要なところには無くて、必要でないところにある。それはなーんだ。」
唐突にフクロウから謎掛けをされた私は何も答えることができなかった。私が黙っていると再び嘴を歪めて笑った。何度見てもやはり不快な顔だ。
あまりにも不快だったため「あなたは醜い。」とつい口に出して私は言ってしまった。
だがフクロウは嘴を歪めて笑ったまま、「美醜に何の意味がある。中身こそが大事なんだよ。お前はまるでわかっていない。」と自信満々の様子で言った。だが私にはフクロウの中身がそんなに大したものであるとは到底思えなかった。
私を見つめるフクロウの冷たい目に浮かぶ感情は嘲笑だった。


その日私は、通路の手前の右側、1番が付けられている檻の前で彼ら囚人が食事を終えるのを待っていた。
カエルの顔をした男はいつも壁に貼ってある様々な神の絵に向かって祈っていた。
毎日ただひたすら神に祈り続けていた。
その祈りは自身の犯した罪に対する贖罪の祈りではなく、死刑囚という自身が置かれた今の状況から助けを乞う祈りだった。
自身を助けてくれるなら誰でも構わないという浅ましい思慮、それを恥ずかしげもなく行為に移し堂々と繰り返す、他に縋るものがない哀れな存在。
私はカエルには何と声をかけていいのか分からず、またカエルから私に話しかけてくることもなく、ただ無言の時間が過ぎていった。その間もカエルはひたすら神に祈り続けていた。
神を見つめるカエルのギョロっとした目に浮かぶ感情は懇願だった。


唯一、ここで人の姿をしている所長だが、私はほとんど会うことはない。
所長室の中にいるのかいないのかも不明で、私が仕事で自室の外にいる時に出てくることもないし、私が所長室に勝手に行くことも許されてはいない。
看守は人の姿をしてはいるが顔に表情はなくすべての看守がまったく同じ顔をしているせいでマネキンが動いているようにしか見えない。会話を交わしたことはないし、私が話しかけても機械的な声で必要最低限の返答しかしない。
そのため必然と話をする相手は檻の中にいる死刑囚しかいなかった。ただ話をして楽しいと思える囚人は皆無で、所長に言われなければ話をすることはしないだろう。寧ろ話すことがここでの私のストレスとなっていて、本音を言えば話したくはなかった。どうしてこれが私の治療になるのかどうしても分からなかった。
ただ私には毎日医者による面談があった。今の私にとってはイルカの顔をした医者と話をするのが、唯一の楽しみであり、救いだった。
私は自身にあったこと、思っていることを毎日イルカの医者に話して聞かせた。
彼女は私の話をちゃんと聞いてくれるし、それに対して私が満足する返答も返してくれた。
ここにいる他の誰もがそれを私に対してしてくれることはなかった。そもそも囚人なんかに期待する方がおかしいのだが、私に与えられた環境の中ではイルカの医者以外には、たとえそれが不本意でも囚人にも縋るしかないのだ。


そんな日が永遠に続くように思えたが、変化はある日突然やってきた。
正確には分からないが、おそらく私がここに来て半年ほど経ったときだろうか。
その日は朝食の時間が一時間遅くなった。私がここに来てからそんなことは初めてだった。
そして朝食の時間になり、配る朝食を受け取りに行くと4人分しかない。
看守に確認すると、この数で合っているから問題ないと言われる。
理由に一つだけ思いつくことがあった。
1人誰かがいなくなったのだ。死刑囚がいなくなったということはおそらく誰かの死刑が執行されたのだろう。
檻の前に行くといつもと明らかに場の雰囲気が異なる。静まり返った牢獄から感じられるのは不安と恐怖だけだった。
私は食事が入った皿をいつも通りの段取りで配っていく。
猿はいる、ラクダはいる。そしてウサギの檻の前に来たときに、そこには誰もいなかった。そこで私は誰が処刑されたのかを知った。
いや、ここに来る前から処刑されたのがウサギだということはなんとなく想像はしていた。
昨日、夕食のときに何が原因だったかは今となってはもう知りようもないが、ウサギが激怒して私のことを酷い言葉で詰り始めたのだ。
最初は私は冷静に受け流していたが、一向に私を詰ることを止めようとしないウサギに対して徐々に怒りが込み上げていた。
そんな感情はここに来てから初めてだった。そして、ウサギが私が何も言い返してこないことに対して、そんなだからいつまで経ってもこんなところで馬鹿の一つ覚えみたいに食事を配ることしかできないんだと見下したように大笑いしたのだ。そしてまだご飯が残っている皿を私に向かって投げつけたのだ。
その瞬間、私は檻に向かって突進しウサギに掴みかかろうとした。ウサギは素早く檻の奥に逃れたが、まさか私がこのような行動に出るとは思わず驚いた表情を浮かべていた。そこに割って入ってきた看守がいつもの無表情のまま私を監獄から連れ出した。
その後、所長室に連れていかれた私は、その場でウサギに対する怒りを所長に訴えた。
その怒りは止めどなく次から次へと溢れ出してきた。
私がすべての怒りを吐き出し終えて黙ったところで、所長はただ「わかった。」と一言だけ答えたのだった。


その日のイルカの医者との面談では建前として悲しい素振りだけはしていた。だかイルカの医者はウサギが処刑されたことを本心ではどう思うのかと私に聞く。どうやら私の考えは見透かされているようなので、私は正直に気持ちを伝えることにした。ウサギに同情する気は更々ないということ、そして居なくなっても寂しいという気持ちがまったく湧いてこないということを私は話した。ウサギが何の罪を犯したのかは知らないが、その罪を自身の命で償っただけ、ただそれだけのこと。それが彼ら死刑囚という存在の運命なのだから。
イルカの医者は、私の話を聞いて少しだけ眉間に皺を寄せるような表情をしたが、その後「そう。」とだけ答えた。
私はイルカの医者に早く病気を治してここを出たいと伝えた。ウサギのこともあり正直なところ、もうここでの生活にウンザリしてきていた。
イルカの医者はそれに対しては嬉しそうに頷くと「早く出れるように頑張ろうね。」と私の手を取ると優しく握りしめた。久しぶりの人の手の感触に荒れていた心が休まるような気がした。


今までの囚人たちの普段の様子を見てるといつか処刑されるかもという雰囲気はまるで感じられなかった。もしかしたら自分は処刑はされないのでは、という考えを持っていたのかもしれない。でも今回のことがあって、その考えは一気に打ち崩されたようだった。
誰もがウサギがいなくなったことに気づいていながらも、表面上はそれが大した問題ではないという態度に終始していた。
しかし、ウサギが処刑されてから牢獄の中の空気が変わったのを私は肌で感じていた。
そしてなぜか皆が揃って私のことを怯えた目で見るようになっていた。まるで私がウサギを処刑したかのような怯え方だった。処刑を決めたのは所長のはずなのに。


それから数日したある日、仕事のため牢獄へ向かうと何やらいつもと雰囲気が違う気がする。
先日のウサギの処刑されたときとはまた異なる、実際のところは具体的に何が違うのかは分からなかったが、ザワザワした落ち着きのなさのようなものが感じられた。
いつも通り手際良く食事を配っているときに私は何かがおかしい事に気づいた。
配膳用の台車に、食事が載った皿が一枚だけ多い。
ウサギがいなくなった後、配膳する皿は4枚だった。なのに今日は5枚ある。
すると1番奥の使われていない檻の鉄格子の隙間から手がニュッと出ときた。
さすがに私もそれには驚いて「えっ」と声を出してしまった。
それをちょうど今、皿を受け取ったばかりのフクロウが見ていて、いつもの調子で嘴を歪ませて笑った。
「おいおい、聞かされていないのか。新入りがいるんだよ。」


新入りは蛇の顔をしていた。絶えず口から舌がチョロチョロと出入りしているのがいかにも蛇といった感じだった。
蛇はかなり饒舌だった。私が何も聞かなくても常に一方的に捲し立てるように話す。私はかなりの苦手なタイプだったので、こちらからは話さず勝手に話すに任せていた。
「今外では世界中で戦争が始まろうとしている。第三次世界大戦が始まるんだよ。ここは地下だから核戦争になっても安全だ、ここに入れて良かったと心から思うよ。」
蛇はそれを楽しそうに話す。とても鵜呑みにできない話だが、私はこの監獄の外についてまったく知らないので、完全に嘘と断定することはできなかった。
蛇はさらに外の世界がいかに荒廃しているかを恐ろしげに語るが、そもそも半信半疑の私がその話を聞いても一切怖がる気配がないためにつまらなくなったのか、その話はすぐにしなくなった。その次は自分が昔は如何にモテたかを私に具体的に話して聞かせるのだった。
私はおとなしくその話を聞く。それが私の仕事だからだ。だがそれにしても蛇の話はつまらない。こんなにくだらない話があるのかというくらいつまらない。
少しでも私がつまらなそうな態度を見せるとその瞬間に蛇の機嫌が悪くなり、その後は何も話さなくなることがほとんどだった。
次第に蛇は私の顔を見るたびに私を罵倒するようになっていった。そしていつのまにか蛇は私を罵倒すること以外はなにも話さなくなっていった。
私を見つめる蛇の冷たい目に浮かぶ感情は侮蔑だった。


私はその頃から度々床に身体が吸い込まれれてそのまま地の底に落下していくような感覚になることがあった。瞬間的なものだけど非常に不快な感覚で、その後に吐き気や目眩がすることもある。
私の病気と何か関係があるのかもしれないとイルカの医者に相談したことがあったが、薬を処方されただけだった。
だがいつまでたってもその症状には改善の兆しは見えてこなかった。ただこの不快な感覚を感じているとき、曖昧な過去の記憶がふと思い出されそうになるがでも結局思い出せずということがあり、またそれが私を不快な気持ちにさせるのだった。


翌日も朝からいつもと変わらず囚人の食事が終わるのを待っていた。今日は猿の檻の前にいたのだが、珍しく猿は何も話さず黙々と食事をしている。いつもならば一口食べては文句を喚き散らかしているのに。
「今日は静かですね。」
私から話しかけて見たが、チラッとこちらを見ただけでやはり何も言ってこない。
別に話さないのであればそれはそれで構わない。私も別に積極的に話をしたいわけではない。
私はそれからは黙って猿が食事をするのを見つめていた。すると突然猿は手に持った皿を鉄格子に目掛けて投げつけた。辺り一面に皿に残っていたご飯が散乱する。
「何をしているのですか。」
私は急なことで驚いたが、冷静を保って猿に問いかけた。
「分かってるんだよ、お前があっちの檻に入っていた女を殺したんだろう。」
「私が、馬鹿なことは言わないでください。私はそんなことはしていません。」
「お前と女が揉めたあの日の翌日だったな、あの女が突然居なくなったのは。どう考えても不自然だろう、お前が関係ないなんてことは。」
ガシャンガシャン。
目の前の猿の檻とは異なる場所から檻を激しく揺さぶる音がする。
「そうだ、女はお前が処刑させたんだ。」
フクロウの声が、檻を揺さぶる音に重なって聞こえる。
「私はそんなことはしていない!」
私はフクロウに向かって叫ぶ。
「いーや、絶対にお前がやったんだ。」
目の前で猿が歯を剥き出しにして叫んでいる。
「今度は俺たちの番か、やれるもんならやってみろ。」
フクロウがさらに激しく檻を揺さぶりながら叫ぶ。
私はその場にいることに耐えられなくなり、逃げ出そうとするが、出口の扉は固く閉じられたままだった。
「開けて。」
横にいる看守に懇願するが、看守はいつもと同じ無表情で微動だにしない。
私は扉の前で頭を抱えて蹲った。そうすることでしかこの状況から逃れる術がなかった。


気づくとそこは所長室だった。
目の前に所長が椅子に座ってこちらを見ている。
私も椅子に座らされていることに気づく。
「もうこんなところはウンザリです。早く外に出してください。」
私は目の前の所長に力なく懇願した。
「あなたがここにいる目的はあなたの病気の治療のためです。あなたの病気が治ったのならば、あなたはここを出て行くことができます。」
所長は椅子から立ち上がり私の横に立って私の顔を覗き込んだ。
「ならば聞きます。あなたの病気は治りましたか。」
私は一瞬躊躇するも、はっきりと所長に答えた。
「私は治りました。」
所長はただ「わかった。」と一言だけ答えたのだった。


翌日、朝になるといつものように囚人の食事の配膳をしようと、配膳用の台車置き場に行くと何も置かれてはいなかった。今までこんなことは一度もなかった。
看守たちに話しかけるも何の反応もない。すべての看守が完全に本物のマネキンとなってしまっている。
牢獄へと繋がる扉が開いているので私はゆっくりと中に入っていった。
牢獄の中には所長が一人で立っていた。両側に並ぶ檻の扉はすべてが開いている。
所長はただ黙って私を見つめている。それを見た私は、何かが起こったことを理解した。
それは私が望む結果のはずなのに恐ろしさで体中が震える。
私は恐る恐る近くの檻の中を覗き込んだ。
そこには猿が血の海の中に倒れていた。
他の檻にも、ラクダが、フクロウが、カエルが同じように血の海の中に倒れている。
最近この牢獄に来た蛇の檻の中を覗くと、やはりそこには血の海の中に倒れる蛇がいた。
私が所長を見ると、所長は表情を変えることもなく言った。
「これはあなたがしたことです。」
「違う、私は何もしていない。」
すると驚いたことに、所長の顔には笑顔が浮かんだ。
「あなたは病気が治ったと言った。ならば思い出せるはずだ、あなたがやったことを。」
私がやったこと、、、。私の記憶の中で思い出したくない何かが微かに思い出されてくる。
「檻の中で死んでいる死刑囚たちをよく見てみなさい。」
私は恐る恐る猿の死体を覗き込む。何かがおかしい。猿ではない、これは人間の顔をしている。しかもよく知っている顔だ。私の、、、私の父親の顔だった。
他の死体も見てみる。ラクダは母親、フクロウは弟、カエルは祖父、それぞれ皆私の知っている顔だった。
「これはどういうこと。」
その時、まだ蛇の死体を確認していないことを思い出し、蛇の死体を覗き込む。
「これは、、、。」
それは高校時代に私をイジメていた同級生の顔だった。
「思い出した、、、そうだ、、、すべてを思い出した。」
そう言って振り返った私が見たのは、私のことを再び黙って見つめる所長だった。
「うわぁー。」
私は驚きのあまり絶叫した。
その所長の顔が私とまったく同じ顔だということにその時に気づいた。


目が覚めると私は見たこともない部屋にいた。どうやらベッドの上に寝かされているみたいだ。
体を動かそうとするが、何かに押さえられているのか動けない。
「ごめんなさいね、暴れられたら困るから拘束させてもらっているの。」
そう話す声が頭の上の方から聞こえてくる。そちらを見ようと頭を動かしたが、その人物が白衣を着けていることはわかったが、どうしても顔は見えなかった。
「やっと目が覚めたみたいね、良かったわ。私はあなたの主治医です。」
それは穏やかな、そして聞き覚えのある優しい声だった。
「何があったか覚えているかしら。」
その一言で私の頭の中に、思い出したくもない記憶が濁流のように流れ込んできた。
「私は、、、そうか、、、あぁ、、、。」


そうだった。
始まりは、私が高校時代のことだ。元々は仲が良かったが些細なことで喧嘩になった同級生の一人からイジメを受けるよういなった私は、やがてクラスの皆からも無視されるようになった。それでも我慢を続けていたがある日、執拗な嫌がらせにキレてしまった私は怒りのままにその同級生に暴力を振るい怪我を負わせてしまった。我に返った私は報復を恐れ、その次の日から学校には行かなくなり家に引きこもるようになっていた。
それからはずっと家の中だけが私の世界だった。
厳しかった父からは学校に行くようにと叱られ怒鳴られたりもしたが、私は部屋から出ることはなかった。母はそんな父を止めるでもなく、猫撫で声で私に学校に行くように横から諭してきた。だが私はそんな父と母を無視し続けた。やがて諦めたのか父も母も私に何も言わなくなった。
そして時はあっという間に流れていつの間にか私は20代となっていた。私には3つ下の妹と5つ下の弟がいた。妹は家に引きこもっている私を汚いものを見るような目でいつも見ていた。弟は私のことを人生の落伍者とあからさまに馬鹿にした目でいつも見ていた。家には同居している祖父がいたが、祖父は祖母が亡くなってからは宗教にのめり込んでしまい他の家族のことなどにはいっさい興味がなかった。
私は、常に部屋で孤独を抱えていた。そんな私の唯一の心の拠り所は本だった。本を読んでいる間は現実の問題を一切忘れられる。ネットで様々な本を買ってはそれを読む生活が続いていた。そして本は部屋の中で山積みとなり、私の部屋の中だけでは納まらなくなっていった。
やがて同じ毎日の繰り返しが続く中で、さすがに私の中でも、こんな生活をいつまでも続けていていいのかという焦りと不安の気持ちが湧いてきた。すると次第にもう閉じこもっている生活にウンザリだと思うようになっていった。ただこの生活を抜け出すにはどうすればいいのか私には分からなかった。
いきなり社会に出ていく勇気は私にはなかった。
だから、まずは自分の力でも出来ることから始めてみることにした。それは部屋から出て家族と同じ食卓で食事をとることだった。今まで食事は、3食すべてを母親が部屋に運んで来たものを部屋の中で1人で食べていた。
突然私が部屋から出て食卓で食事を始めたことに家族の皆が驚くとともに疑念の目を向けていた。だけど私は強い覚悟を持って、その生活を続けた。
また食事のときにはなるべく家族と会話をするように心掛けた。妹は高校の部活、弟は塾に通っていて帰りが遅いこともあったが、そんな時も私は時間をずらして妹や弟と同じ時間に食事を取ったりもした。まず家族に認めてもらうこと、これが私の外の世界へと繋がる方法だと信じての行動だった。
徐々にではあったが家族も私の意図を察して受け入れ始めてくれていると私は思っていた。
それこそ私の独りよがりの楽観的な考えとも知らずに。
そんなある日、突然の悲劇が訪れる。
その日は家に私と妹の二人しかいなかった。部屋にいた私は、廊下で何かを叫ぶ妹の声を聞いた。部屋のドアを開けて顔を出して覗いてみると、妹が私の部屋の前に積み重ねてある本の山に足の指をぶつけたと怒り心頭だった。妹はこんな本は捨ててしまえと私の積み重ねてある本の山を押し倒している。私は妹を止めようと部屋から出て妹を抑え込む。
だが妹は私に触れられるのに嫌悪を覚えたようで、触るなと先ほど以上にひどい剣幕で私に罵詈雑言を捲し立てた。私も妹のそんな態度に次第に怒りを感じてきていた。だが悪いのは私だという思いもあり、グッと怒りの感情を押さえていた。そんな私を見て妹は今度は大笑いをし始めた。「これだけ妹に言われても何一つ言い返せないから学校でイジメられて家に引きこもるんだよ。このまま一生ずっと引きこもりとして部屋に篭って出てこないで良かったのに、最近部屋から出てきて食卓でご飯を食べててマジきもい。」
それを聞いた私は瞬間的にキレた。その後私が何をしたのか覚えてはいない。気づいた時には首に布上のものを巻き付けて息をしていない妹が倒れていた。
私は自分が何をしたのか記憶はなかったが、何が起こったのかは想像はできた。
目の前の妹の死体をどうすればいいのか考えたが、私にこの状況を打開する考えが浮かぶことはなく、ただ妹の死体を私の部屋の本の山の中に隠すことしかできなかった。
それから私は妹の死体と部屋で過ごしていた。家族は妹がいないことを心配はしていたが、誰にも何も言わずに以前に友人と旅行に行ったことのある前科がある妹だけに、すぐに警察に通報するようなことはなかった。だがそれも3日が限界だった。携帯電話にかけても電話に出ない妹に家族は何かあったのではないかと思うようになっていた。また私の部屋に隠した妹の死体もだんだんと異臭を放つようになっていた。
私はこの状態を続けることが限界だと知り、どうするべきか悩んだ。一つだけ思いついたことはあったが、私にはそれを実行する決断はできなかった。
そして翌日を迎えた。私がトイレに行くため部屋を離れて戻ってくると部屋には父と弟がいた。そして二人は妹の死体をみて呆然としていた。
どうやら死体からの異臭は部屋から漏れて廊下まで臭っていたらしい。私が部屋を出るのを待って、部屋の中を確認しようと待っていたみたいだ。父はこれはどういうことだと激しい苛立ちを私にぶつけ、弟はついにやりやがったと私を嘲笑した。私は黙って自分の机に向かうと机の袖にある引き出しを開けた。その中にはキッチンから持ち込んでいた包丁が入っていた。それを手に取ると、迷うことはなく父と弟に包丁を突き立てた。
その後、キッチンにいた母と自室にいた祖父を、父と弟を刺したのと同じ包丁で刺し殺した。
母は最期まで一切何の抵抗もしなかった。恐怖と諦めが混じったような複雑な表情をしていたが、最後には涙を流しながら言った。
「お前にはいくらでも可能性があったのに自分でその可能性を潰したんだ。」
そして母は渇いた声で笑った。母の笑いは諦めであったように思う。
私はせめて苦しまないように力いっぱい包丁を母の心臓に突き立てた。
祖父は堪忍してくれと必死に助けを求めてきて哀れにも思ったが、寧ろこの状態で祖父だけ生き残っていったい何があるというのだろう。皆と一緒に死ぬのが幸せだろうと容赦なく包丁をその弱弱しい肉体に何度も突き立てた。
もはやこの家には生きている人間は私しかいない。あとは5人の死体が転がっているだけだった。私は以前に考えていた計画を実行することにした。もはやこの状況になって何を躊躇する必要があるだろうか。
返り血で汚れた服を着替えた私は、そのまま家を出た。そして事前に調べておいた高校時代に私をイジメていた同級生の住むマンションに向かった。マンションに着いて同級生の部屋のインターフォンを押すと、母親らしき人が出た。私は高校時代の友人だと説明すると、母親は家の中で待つようにと私を家にあげてくれた。母親から同級生は大学のサークルの集まりに行っていて、もうすぐに帰ってくると私に教えてくれた。私はそれはちょうど良かったとカバンに入れて持ってきた家族を刺し殺した包丁を取り出すと、母親を脅してロープで縛り上げた。
しばらく待っていると玄関の扉が開く音が聞こえた。誰が入って来たのか分からなかったので隠れて様子を伺っていると、私たちがいる部屋の中に入ってくる同級生が見えた。数年振りに会うが間違いなく私をいじめていた憎い顔だった。同級生は母親が縛られて倒れているのに気づき慌てて近づいてきた。私は隠れているところから飛び出すと、まずは同級生の右脚の太ももに包丁を突き立てた。激痛に叫び声をあげる。私はそんな同級生を冷静に見下ろしていた。高校時代とは立場が逆転していた。私は足で倒れている同級生の顔を蹴りつけた。苦悶の声を上げながらも私から少しでも遠ざかろうと手足をバタつかせて廊下を這いずる。哀れな存在に成り下がった同級生だったが憐れみは一切覚えない。寧ろ今の私がこんな目に、いや、こんな事をする羽目になったのはすべて目の前にいるこいつのせいだとあらためて怒りを感じた。
同級生は私が誰だかわからなかったらしい。なぜこんなことをするのかと私に向けて喚いていた。私は同級生に顔を向け、私のことがわからないのかと聞いた。血だらけの顔をこちらに向けて私を凝視した同級生は私が誰なのかにやっと気づいたらしい。そして、すぐにどうしてこのような状況になったのかの理由に思い至ったのか、私に許してほしいと泣きながら懇願し始めた。私はそんな同級生に言った。
「今更謝られても遅い、お前のせいで私の家族は皆私が殺してしまった。あのとき私は今のお前と同じように泣きながら許してほしいと懇願したが、お前は許してくれることはなかっただろう。」
同級生は絶望したような表情を浮かべた。私にとっては最高の表情だった。私は包丁を振りかぶると同級生の首筋を目掛けて迷うこともなく包丁を一気に振り下ろした。
すべてを終えた私はそのまま同級生の住んでいたマンションを出ようとした。部屋からエレベーターに向かっているとちょうどエレベーターが私のいる階に着いた。開いたエレベーターの扉から警察官が2人降りてくる。どうやら部屋からの悲鳴を聞いた近所の住人が通報していたようだった。返り血をビッショリと浴びていた私を見た警察官は私に近づいてきた。私は慌てて踵を返すとエレベーターとは反対側にあるマンションの外階段を駆け登った。後ろから警察官が止まりなさいと叫びながら追いかけてくる。逃げきれないと悟った私はマンションの最上階の踊り場から壁を乗り越えるとそのまま宙へと身を躍らせた。元々最後に殺すのは自分と決めていた私に躊躇はなかった。落下する際にフワッと内臓が浮くような不快な感覚を覚えたのが私の最後の記憶だった。


「落下した場所がたまたま柔らかい土だったからあなたはなんとか一命を取り留めたのよ。それがあなたにとって運が良かったのか悪かったのかは分からないけど。あなたがやったことは警察は全て把握している。今もこの病室の外で警察の人があなたと話をしたくて待っているわ。」
運が良かったわけがない。おそらく私は絶望感でいっぱいの表情をしているだろう。
「体の傷はすぐに良くなったわ。でも傷は治ってもあなたは完全には目覚めなかった。なぜかは分からないけどあなたは毎日必ず同じ時間になると半分覚醒した状態になったの。そしてあなたは自分について話してくれた。あなたは夢の世界にいたのね。そこはあなたの悔恨と罪悪感が作り出した世界。だから私は根気強くあなたの話を聞き続けた。そしてアドバイスをしたわ、あなたが元のこっちの世界に戻ってこれるように。」
そう言って私のことを覗きこんだ主治医の顔は勿論イルカではなく、普通の人間の優しそうな女性の顔だった。
その女医の胸には一枚のプレートが付けられていた。そこには「入鹿」と書かれていた。
私の目線に気づいた女医は微笑んで言った。
「『いるか』って読むのよ。」
「じゃあ、医者の顔がイルカに見えたのはもしかして、、、。」
「あなたと初めて会ったときに、半覚醒のあなたに『私は入鹿と言います』と自己紹介をしたのだけど、あなたは意識下でそれを私が"イルカ"だと認識してしまったのね。たぶん他の人が動物の顔に見えたのもそれが影響したのかもしれないわ。」
分かってしまえばたわいもないことだったが、私には今となってはそれももうどうでもいいことだった。
もはや死ぬことすらできない絶望感で目から溢れるように涙が流れるが、 拘束されていて身動きが取れない私はそれを拭うことすらできなかった。それはまるで私のこれからの人生を暗示しているかのように感じられ、それがまた尚のこと私の絶望を大きくするのだった。
「あなたは長年自分の家に引きこもっていたように、今度は自分の心の中に引きこもっていたのね。臆病なあなたはいつも逃げて隠れてばかり。でもあなたの中にもそれに贖う気持ちが僅かにだけどあった。それがあなたが夢の中の世界にいたときに所長と呼んでいた人物。つまり所長はもう1人のあなただったのよ。」
この医者は間違いなく真実を言っているのだろう。私が夢の中で見ていたことを正確に知っている。私が夢の中でイルカの医者に話していたことを、私は現実の世界でこの人に話していたのだろうか。
「残念だけどあなたは自分がしたことの罪に対する罰をしっかりと受けるべきだわ。それが人としてあるべき姿だと思うの。」
この女医はやはり間違ったことは言ってないのだろうが、結局私のような人間のことは理解できないのだろうと思った。私がどうして私自身を導いて心の監獄から現実世界へと戻ってきたのか。私の望みはただ外の世界に戻り自由になりたかっただけなのだ。私の罪などどうでもいい。もう私を閉じ込めないで欲しい。
ただもうその願いが叶うことはない。私は再び閉じ込められる。
ああ、また同じことの繰り返しの毎日が始まる。

 

更新日:2024/11/4

バージョン:1.0