怪談 ~躓き~
カウンター席しかないバーでオカルトが好きな常連客の3人がキリストの聖痕現象の真偽について話をしていたが、議論が尽きたのか、みな次第に口数が少なくなってきた。
そんな時、常連の中で1番若い、皆から”坊ちゃん”と呼ばれる男が、「そう言えばこんなことがあったんだけど。」と、先日自身が経験した不思議な出来事を話始めた。
その日、坊ちゃんは友人との待ち合わせに遅れそうだったため、駅に向かって急いで歩いていた。
その途中、駅近くの商業ビルの横にある広い歩道を足早に進んでいた坊ちゃんは、突然道の真ん中で何かに躓いた。
ちょうどスマホを操作しながら歩いていたために完全にバランスを崩し踏ん張る事ができずに転倒してしまった。坊ちゃんはスマホを落とさない様にするのに精一杯で、咄嗟に地面に着いた手のひらと膝を強く打ってしまった。坊ちゃんは手と足の激しい痛みに顔を歪めた。ぶつけた手のひらと膝には擦り傷ができていて血が滲んでいる。
坊ちゃんは周囲の視線が気になり痛みに堪えて立ち上がった。そして歩いていた道を確認したが、段差もなにもない平坦な道で躓くようなものは見当たらない。いったい何に躓いたのだろうか。しかしあきらかに足に何かが当たった感触があった。その時、そういえばこの道を歩いていると躓く人を良く見かけるような気がすると坊ちゃんは思った。
「それのどこが不思議な話なの。」
常連客の一人、派手な赤色の服を着けた年齢不詳で皆から”ミセス”と呼ばれる女が笑った。
「あなたがただ不注意なだけでしょ。」
ミセスがまた笑うと坊ちゃんはそんなんじゃないと不貞腐れて口を尖らせる。
常連客の一人、40代くらいで身なりの良いスーツ姿、皆から”先生”と呼ばれる男が、そんな2人のやりとりにまぁまぁと割って入った。そして坊ちゃんにその躓いた場所はどこだと聞いた。
坊ちゃんから詳細に場所を聞いた先生は、「あそこか。」と一人納得の表情を浮かべた。
そこは現在、駅前に商業ビルなどが立ち並ぶ若者に人気のお洒落な街となっているが、20年ほど前までは、駅前にはシャッターが立ち並ぶ商店街と古びた広い神社があるだけの寂れた街だった。
先生がそんな話をしていると、その神社なら私知っている、とそれまで黙って聞いていたマスターが唐突に話に入ってきた。
「神社なのに裏手に墓地があったのよね。」
先生がマスターの話に頷く。
「そうです、その神社です。」
「あそこは他に比べて不思議な雰囲気の神社だった。」
どうしてそんなマイナーな神社のことを知っているのか皆が不思議そうな顔をすると、若い頃に趣味で都内の神社巡りをしたことがあると教えてくれた。
照れたように笑うマスターは話が脱線したことに気づいたのか先生に手を差し出して先を促した。先生が話を戻す。
そんな寂れた街にも近年になると駅前の再開発の話が持ち上がり、神社と墓地がある辺りも含めた広範囲の土地を買収し跡地に大型の商業ビルを建てることになった。神社は老朽化の問題もあって立ち退き交渉はスムーズに進んだらしい。ただ墓地の移転はいろいろと問題があり難航したようだ。
やっとすべての問題が解決し、商業ビルの建設を含めた街の再開発が始まったのは計画が決まってから2年後のことだった。
「坊ちゃんが躓いたというあたりは、おそらく昔その神社と墓地があったあたりだろう。」
「でも神社に墓地があるなんて珍しいわね。」
ミセスがボソッと呟いた。
「たしかに神道では死者は穢れとして忌むべきものとされていますから、墓地がある神社は滅多にはないはずです。」
そして先生がゆっくりと思い出すように、なぜその神社と墓地が同じ場所にあるのか、その理由を語り出した。
実は戦前、その地には墓地を含む大きなお寺があった。だがその辺りは戦時中に空襲があり、火災で寺の本堂は全て消失してしまった。戦後になり寺を再建するにあたり、理由は分からないが寺を別の場所に移転して建設することになった。当然墓地も一緒に移転することになるのだが、一部の檀家が墓地の移転に難色を示した。昔から何代にも渡って先祖が眠る墓を軽々しく他所に移すことはできないと。話し合いが持たれたが折り合いはつかず、結局寺は別の場所で再建された。残された墓は檀家自身で管理されることになったが、その寺の広い跡地に神社が作られることになった。
この神社も元々別の場所にあったが、同じく空襲で全焼し、元々の場所が不便なところだったため移転先を探していたのだった。
こうして墓地の隣に神社があるという不可思議な状況が生まれた。
「過去を遡れば、他の地でも神社のそばに墓地があるという状況は稀にあったようです。そして、そういうときには神社と墓地の間に結界を張ることで穢れが神社に影響しないようにしていたみたいです。」
「へぇー、そんなことがあるなんて全然知らなかった。さすが先生は博識だね。」
坊ちゃんが感心したように頷いた。横でミセスも同じように頷いている。
やがて月日は流れて、再開発のため神社と墓地はその地から姿を消すことになった。
問題は結界だった。一度張った結界は神社と墓地がなくなったからといって勝手に解かれるようなものではない。しっかりと対処していれば問題はないが、もしかしたら今の神社の神主が移転の際に結界を解いていかなかったかもしれない。
単純に忘れていたのか、神主には結界を解く力がなかったのかはわからないが、結果として結界だけ残された。
結界は普通の人にはなんら影響はないが、ある程度の霊能力がある人にとっては何かしら影響があったかもしれない。
そのため、その残された結界に引っかかって躓く人がいる。
先生はそこまで話し終えると、ふうっと浅くため息をついた。
「まあ、あくまでこんな噂話がありますということです。真偽は不明ですけどね。」
「なんか先生の話にしてははっきりしないですね。」
ミセスがそう言うと、先生は頭を掻いて微かに苦笑いを浮かべた。
ミセスはそれを見て先生が気を悪くしたかもと思い、「ごめんなさい。」と謝罪した。
だが、先生は顔の前で手を横に振った。
「そうじゃないんです。実は私自身この噂には腑に落ちないところがあります。」
そう言って先生は笑った。
「どういうこと。」
ミセスが少し身を乗り出してそう聞くと、坊ちゃんもマスターも同じように少し身を乗り出した。
「この結界に引っかかって躓くというのが私的にはどうにも納得できないところです。」と先生が答えた。
「結界はあくまで死者の穢れに対するものですので、それがどういう形であれ生者に影響するというのがどうにも理解できない。」
「たしかにそう言われると霊能力がある人間だけが躓くっているのも少し無理矢理な感じがするわね。」
マスターはいつのまにか作った水割りを飲みながら、そのように言った。
先生が目の前に置かれた自身のグラスに手を伸ばしてそれを口に運ぶのを全員がそれとなく目で追う。
先生はグラスを元あった場所に置くと、皆が自身に注目しているのに気づいて、ふっと軽く笑った。
「すみません、話はまだこれで終わりではありません。実はですね、最近この話とは別の噂があることを知りました。私はどちらかと言うとそちらの噂話を気に入っています。」
「さっきの噂ももちろん、街の再開発で神社が移転したということまでは間違いなく事実です。ただ、神社が移転した場所はわかっているのですが、墓地がどうなったかというのが実際のところはっきりしていないのです。
そのため、こんな噂が一部のオカルトマニアの間で流布しています。
実は墓地は移転しておらず、墓地は今までと同じ場所にある。ただ墓地を覆うように道を作っただけだと。
実際のところ、たしかにあの辺りの道は一部の区間だけ不自然に少しだけ丘のように小高くなっているところがありますよね。 ちょうどそこの地下に墓地があると言うのです。
そのため墓地に眠る霊たちが、自分たちの上を騒がしく歩く人間に嫌がらせをするため足を掴んでいるのではないかという話です。
この噂も信憑性はありません。そもそも法律的にそのような墓地が許可されるようには思えませんしね。ただそんな地下霊廟がほんとうにあるというのなら是非見てみたいと思いませんか。」
先生がめずらしく興奮気味に話すので皆話に聞き入ってしまっていた。
先生が自身のグラスを手に取ると、グラスの中で溶けた氷がカランと音を立てる。
残り少なくなったグラスの中身を飲み干すと、先生はマスターにグラスを掲げておかわりをお願いした。
「両方の説が正しいのか、または両方とも違うのか、それとももしかしたら両方とも正しいのかもしれない。でもそれは残念ながらわかりません。」
先生は軽く腰を浮かして椅子に座り直すと、坊ちゃんのほうを見た。
「どうです、なにが事実か確認してみますか。」
坊ちゃんは苦笑すると、迷わず首を横に振った。
「もうあの道は通るのをやめるよ。君子危うきに近寄らずとも言うしね。オカルトはこうして酒の肴ぐらいにするのがちょうどいいと思うんですよ。」
先生は「そうですか。」と少しだけ残念そうな顔をした。
「坊ちゃんは君子じゃなくてただのビビりでしょ。」
そう言ってミセスが笑うと、また坊ちゃんは不貞腐れたように口を尖らせた。
更新日:2024/11/16
バージョン:1.0