怪談 ~正座する男~
夕闇が迫る11月、冷たい雨が降りしきる中、優里は駅に降り立った。時刻はすでに21時を過ぎている。どうも昼間から少し熱っぽく感じられ、体調が優れない。駅から家路の途中には川があり、いつもなら遠回りになってでも街灯があり明るい大橋を選ぶところだが、一刻も早く家に着きたい一心で、優里は暗くて人通りの少ない近くの歩行者専用の橋へ向かった。
駅を出て土手沿いの道を少し歩くと、眼下にひっそりと佇む歩行者専用の橋が見えてくる。
そこへ続く下り坂は土手の上からは死角になり、橋の街灯も球切れか点いていないものもあり、如何にも心許ない。
普段なら夜中に一人で渡ることをためらう場所だが、急ぐ気持ちが優里の警戒心を鈍らせていた。
優里は一応周囲に不審な影がないか確認しながら、一歩ずつ橋を進む。
川幅はそれほど広くはなく、橋の長さも20メートルほどしかない。橋の中央に差し掛かった時、優里は何気なく川面へと視線を向けた。
暗闇と雨粒に遮られた視界の先、川の中央から何かが突き出ているのが見えた。
黒い塊。それが何なのか、優里には判別できなかった。
急いでいたにもかかわらず、その奇妙な存在に気を取られ、優里は思わず足を止めてしまう。目を凝らすが、やはり黒い物体としか認識できない。
一体あれは何なのか。気にはなるが、こんな場所でいつまでも立ち止まっているわけにはいかない。優里は未練を残しながらも、その物体から目を離し、家路を急いだ。
翌日、優里は友人と買い物に出かけるため、駅に向かっていた。明るい時間帯のためいつものように近道となる歩行者専用の橋を渡っていた。
歩きながら昨夜の黒い物体のことを思い出し、あれは何だったのだろうと考える。
橋の中央まで来たところで、昨夜物体を見たあたりに目を凝らすが、そこには何も見当たらない。
昨日の雨で増水し、水位が上がっているせいだろうか。だが、かなりの大きさだったはずだ。
このくらいの水位ならば見えてもおかしくない。首を傾げながらも、優里は友人との約束があるため、その場を後にした。
友人と別れ、優里が駅に着いたのは21時少し前のことだった。今日は雨が降っていない。
優里はいつも通り、遠回りでも大橋を渡ろうと歩き出す。しかし、歩行者専用の橋の近くまで来た時、遠目ながらも優里の視界に再びあの黒い物体が映り込んだ。
夜の暗い歩行者専用の橋を渡るのは正直怖い。だが、それ以上にあの物体の正体を知りたいという衝動が優里を突き動かした。
優里は黒い物体から目を離すことなく橋を渡り続ける。近づくにつれて、暗闇に慣れた目にその輪郭がはっきりと見え始める。
優里は思わず立ち止まった。
「あれって......人?」
さらに目を凝らすと、それは着物を着て正座した男だった。
男はまるで川面に座っているかのように背筋を伸ばし、顔をまっすぐに前に向けている。
それだけでも異様だったが、よく見ると男の両腕があるべき場所には何もない。
優里は自分が何を見ているのか理解できず、ただ立ち尽くしていた。
「そこで何をしているのですか」
不意に背後からかけられた声に、ドキリとして優里は我に返った。振り返ると、懐中電灯を手に警察官が二人立っていた。
「いえ、ちょっと川を見ていて......」
優里は動揺を隠せないまま答えた。
二人のうち年配の警官が言った。
「ちょうど今このあたりをパトロールしていて、あっちの橋からあなたがぼうっと立っているのが見えたので」
若い方の警官が優里に名前を尋ね、自宅の場所を確認した。
年配の警官が心配そうに言う。
「この橋は暗いでしょ。夜に女性が一人で歩くのは危ないですよ」
優里は警官相手ということもあり、言葉を選びながら答えた。
「えっと......そうですよね。それは分かっているのですが、ちょっと確認したいことがあって......」
年配の警官が訝しげに「確認って何ですか」と問う。
優里はちらりと、正座する男が見えた方へ視線を向けた。男は先ほどと変わらない状態でそこにいた。
「ああ、あれが見えるのか」
優里の視線を追った若い警官が呟いた。優里は驚いて若い警官を見た。
「あれって、もしかして前に話してた正座する男がそこの川の中に見えるってやつか」
年配の警官はそう若い警官に訊いた。
頷きながら、若い警官は優里の目を見て言った。
「実は自分、昔から霊とかよく見る質で。前にここパトロールしている時に見つけたんですよ。あの正座する男、ずーっとあそこにいますね」
優里はさらに驚いた。
「そうなんですか。あれは何なのですか」
「何なんだろうね。実は自分にもそこまでは分からないんですよ。自分にはただ見えるだけで、話をしたりすることはできないから」
若い警官は淡々と答えた。
「そうなんですね。でもさっきずーっとそこにいるって言ってたけど、私は昨日初めて見ましたよ」
優里は思いついた疑問をぶつけた。
若い警官は少し考え込む。
「そのへんも自分あまり詳しくないから分からないけど。たぶんなんかの拍子に見えちゃって、その存在に気づいた時から見えるようになると思う。だからあなたが昨日たまたま気づいちゃったから見えるようになったんだと思うよ」
「じゃあこれからずっと見えるってことですか」
そう訊いた優里の声が震えた。
「たぶんあの正座する男があそこにいる限りは、ずっと見えるんじゃないかな」
若い警官はきっぱりと言い放った。
「さっきも言ったけど、自分もそこまで詳しいわけじゃないから断言はできないけど。ただあの正座する男、あそこにいるだけで何かするわけでもないみたいだから気にしなければいいと思うよ。でもどうしても見たくないなら、夜はこの橋を渡らないことだね。まあ、この橋は暗いから、女性が夜一人でここを歩くのは別の意味で危険だと思う。むしろそっちの危険の方があの正座する男より問題だと思うけど。あっ、これは警官としての注意喚起です」
「そうですね」
優里は力なくそう答えるしかなかった。
後日、この河原が江戸時代に罪人の処刑場だったことが分かった。それが、あの正座する男と関係があるのかどうかは分からない。
それ以来、優里は夜、駅から自宅に帰る時は、決して歩行者専用の橋は渡らないようにしている。
そして、川は絶対に視界に入らないように、細心の注意を払って歩くことにしている。
しかし一度見てしまった異形の姿が、優里の記憶から消えることはない。
更新日:2025/6/27
バージョン:1.0