怪談 ~シミ~
大和の働く会社は、築40年を超える古い雑居ビルの中にあった。 時代に取り残されたようなその建物は、昼なお薄暗く、淀んだ空気が漂っている。 会社の中もまた、外観に違わず陰鬱な雰囲気を纏っていた。
大和は、そんな会社の中でも特に嫌悪感を抱く場所があった。 それは、薄汚れた蛍光灯が寂しく光る男子トイレだ。 個室が一つと小便器が二つだけの狭い空間は、清掃会社の努力も虚しく、常に湿気と尿の匂いが入り混じった不快な空気に満ちていた。
大和がトイレを嫌う理由は、入ってすぐ左手にある古びた洗面台に設置された鏡にあった。 曇った鏡には、やつれた自分の姿と、背後のコンクリート壁が映り込む。 問題は、その壁に染み付いた黒いシミだった。
縦横20センチほどのそのシミは、長年の湿気と汚れが凝り固まったように、不気味な形をしていた。 大和がこのビルで働き始めた時からそこにあったというそのシミは、見る角度や光の加減によって、人の横顔に見えることがあった。
特に、鏡越しにふと視線をやった瞬間、そのシミは能面のように無表情な、しかし確かに人間の横顔として大和の目に飛び込んでくるのだ。 じっと見つめればただのシミに過ぎないのだが、一瞬でも人の顔に見えてしまうと、大和は言いようのない不安と恐怖に襲われた。
誰かに話しても信じてもらえないだろう。 大和はそう考え、一人でその恐怖を抱え込んでいた。 しかし、シミが顔に見える現象は日に日に頻度を増し、大和はトイレに行くことすら苦痛に感じるようになっていた。
数日後、大和はついに、会社で一番親しい同僚の菊池にそのことを打ち明けた。 菊池は半信半疑ながらも興味を示し、二人でトイレに向かった。 菊池は様々な角度からシミを眺めたが、ただのシミにしか見えないと笑い飛ばした。
いつもの菊池ならそれで終わったのだが、その日は違った。 菊池は突然、シミに向かって「顔を見せてみろ」などと挑発的な言葉を浴びせ始めたのだ。 そして、制止する大和をよそに、シミを手のひらで何度も叩き始めた。
「やっぱりただのシミじゃないか」
そう言い残して菊池はトイレを出て行った。 大和は、菊池の軽率な行動が何かを引き起こすのではないかと、胸騒ぎを覚えていた。
その予感は的中した。 数日後、菊池が青ざめた顔で大和に話しかけてきた。
「大和、あのシミのことだけど、俺にも顔が見えるようになった」
菊池は、トイレの鏡に映ったシミが、恐ろしい形相の人の顔に見えたのだという。 それは、大和が見ていた無表情な顔とは全く違うものだった。
翌日以降、菊池はトイレに行く度にシミに怯えるようになった。 そして、その恐怖は日に日に増していった。
その数日後、菊池は会社を欠勤した。 風邪だと聞いていたが、一週間経っても出社しないため、大和は上司に事情を聞いた。 すると菊池から退職の連絡があったという。
大和は菊池の携帯電話に何度も電話をかけたが、繋がらなかった。 不安が募る中、一週間後ついに菊池から電話がかかってきた。
「大和、外に出るのが怖いんだ」
菊池は震える声で言った。 街中の鏡やガラスにあのシミの顔が見えるのだという。 それは以前菊池が見た恐ろしいあの顔だった。
菊池は、どこに行ってもあの顔から逃れられない恐怖に耐えきれず、家から一歩も出られなくなっていた。
大和は菊池を病院に連れて行こうとしたが、菊池は頑なに拒んだ。 そして電話は一方的に切れてしまった。
それ以来、大和は会社のトイレでシミが顔に見えることはなくなった。 まるでシミの顔が菊池に取り憑いてしまったかのように。
数ヶ月後、大和が菊池に電話をかけると、その番号は既に使われていなかった。
菊池がその後どうなったのか大和には知る由もなかった。 ただ、あの雑居ビルのトイレの鏡には今日も変わらず黒いシミが映っている。
更新日:2025/3/15
バージョン:1.0